201511221300@Gazio
ニュー・ウェイヴとはなんだったのか Part II. vol. 3
ニュー・ウェイヴとカフェ/クラブ〜 松田勇治が語るナイロン100%からGazioまで 〜
ニュー・ウェイヴとはなんだったのか Part II. vol. 3
ニュー・ウェイヴとカフェ/クラブ〜 松田勇治が語るナイロン100%からGazioまで 〜
正直に申しますと、「松田さん」を存じ上げませんでした。不勉強すみません。
NW史、ロック喫茶やライブハウスへの興味と憧れと、Gazioに行く口実で申し込みました。
全編をまとめようと思いましたが、本編は松田さんのtwitterを見ていただくほうがわかりやすいので、旬をふくむQ&Aの部分をまとめました。
ちなみに自己紹介のとき「SNSで実況するのはOK、写真をUPしたら地獄の果てまで追い詰める。」と仰ってたので(゜Д゜;)ご本人の写真はありません。
というか撮ってもいない。ので、代わりにナイロン100%レシピのチャーハンをば。
NW史、ロック喫茶やライブハウスへの興味と憧れと、Gazioに行く口実で申し込みました。
全編をまとめようと思いましたが、本編は松田さんのtwitterを見ていただくほうがわかりやすいので、旬をふくむQ&Aの部分をまとめました。
ちなみに自己紹介のとき「SNSで実況するのはOK、写真をUPしたら地獄の果てまで追い詰める。」と仰ってたので(゜Д゜;)ご本人の写真はありません。
というか撮ってもいない。ので、代わりにナイロン100%レシピのチャーハンをば。
ま…松田さん
か…かしこさん
か:平沢さんに目をつけられていたの?
ま:(会場に向かって)どう思う?(会場の反応を見て)…つけられてた…んじゃない?
(会場から:貢物してたよね!)…バナナとか貢いでたし。バナナ大事でしょう(笑)
ビキニ(※松田さんのバンド)を師匠に聴かせたらマークが強まったと思う。
じつは俺なんにもやってないんすよ。ライブんとき大太鼓たたいたくらいで。
クレジットに名前が載ってるのは、1人でやってると思われたくないからで、楽器を貸したとかくらいでも載ってましたからね。
スキューバ、カルカドル、ワンパターンあたりまでクレジットされてるんじゃないかな。
か:ヘブナイザーを使いたくて「旬」をしてたのかな。
ま:それ半分ありますね。当時ACユニットの事務所を間借りしていたんですが、そのACユニットも使ってみたいというのもあって。
師匠にサンプリングの仕方とかをレクチャーしていました。
TABLE BEATになって、いっしょに演りました。
法政大学でアレルギーの解散ライブに「LOCATION」と「SHUNⅡ」の2曲演ったんです。
平沢さんがボーカル、中野テリーがシンバル、俺が大太鼓で。
2回くらい練習したんだけど、何で練習したんだろ(笑)
か:平沢さん歌詞覚えてなかったから練習したかったのかもしれないね。
ま:スタジャン着て正ちゃん帽かぶってステージに現れたときのみなさんの「なんだコイツ」という反応が…(笑)。最初で最後の旬のライブです。
(質問コーナー)
Q…会場より
A…松田さん
( )…注釈
Q:旬の1枚目には歌詞はあるんでしょうか。
A:ACユニットに(歌詞を書いた紙が)転がっていたから歌詞はあると思う。何ゆってたかわかんないけど。
Q:TABLE BEATの正確な歌詞が知りたいです。
A:ホーミーみたいなものなので歌詞はありません……中二くらいの日記とか読まれる気持ちにもなってみなさいよ!
(中二で作ったという意味でなく、多感なときに作った詞を蒸し返される気持ちになってみろという比喩)
Q:カルカドルのころのエピソードを教えてください。
A:アルファレコードの持ちスタジオで録音していたんですが、遊びに行ったらグダグダに煮詰まっていたんです。
ダンス素凡夫で、突然師匠が「踊るも戻るも」のところ「花電車いろは」と歌っていたのが印象に残っています。
Q:なんでソノシートをたくさん作っていたのですか?
A:要するに広瀬(当時のP-MODELマネージャー)を食わせるために売っていたんです。
アイツ仕事取ってこなかったから。1枚作ると2か月は食えて、みたいな。
ソノシートは安く作れるんですよ。裏の方法を使えばそれの半額くらいで作れたから。
当時は東京から地方に情報が届くのが遅くて、仙台まで届くのは東京の1年後と言われていたんです。そりゃ地方じゃ誰も来ない。
(知ったところで東京の)ライブ行ったら行ったで鳥の餌まかれるし、何してんだこのジジイ(平沢さん)って思ってました(笑)
か:でもそのころ平沢さん20代後半~30代くらいじゃない?
ま:でも平沢さん30代になったら死にそうになってましたもんね。粗食って大事だな(笑)
Q:スキューバの写真のエピソードを教えてください。
A:撮影に同行しました。場所は外房の立山まで行かないくらいのところ。
エアコンのついていないワンボックスで行ったんですが、平沢さん、三浦、カメラマン、広瀬、俺だったと思う。
脚ひれつけてる写真の足は俺です。つらい撮影だった記憶しかない。
(YOU1さん登場:「おれもいたよ。」だそうです)
海のシーンは千葉です。やることないからカニ取って三浦にぶつけて遊んで、本気で怒られた(笑)
三浦とは仲悪かったですね。俺は免許持ってなくて、三浦は持ってたから運転はいつも三浦で。そんなんじゃ怒りますよね、しかたないですよね。
カルカドルのころ、広瀬からP-MODEL加入の打診は少しあったんですけど、単位が取れなくて断りました。
師匠も「マツダは一人でやらしたほうが面白いだろ」と言ってたし。
Q:ナイロン100%の雰囲気はどうでしたか?
A:入ってた店員によるんですけど、なるべくお客さんとフレンドリーにしなさいと言われてました。
ビキニ(松田さんのバンド)は3回くらいライブを演ったんですが、ライブを定期的にやらないと、ライブハウスだと思ってもらえないからと駆り出されたんです。
江戸(アケミ)さんが真正面にいたときはやりにくかったです。
こんくらいのキョリ(50~60センチ?)でこうやって(腕組み仁王立ち)観てるんで、すこーしずつ下手(しもて)にずれながら演奏してましたね(笑)
16:00に店を開けて、11:30頃終電で帰るという高校生活でした。
Q:今興味のあることはなんですか?
A:テナガエビを釣り針で釣ることに凝っていました。多摩川の河口で。あと歯車同好会。
Q:布教(当時ライブハウスで自分の好きな音楽をかけていた)の成果は出ましたか?
A:布教が自分の半径50cmの範囲内で流行ったことはありましたけど、余り大きくは望まなかったです。
Q:自分だけが知っている音楽を、人に広めたことによって、興味が薄れたりしませんでしたか?
A:それはないです。考えたこともないです。
Q:平沢さんを「師匠」と呼んだきっかけは?
A:TABLE BEATのレコーディング中、車で平沢さんを送ったことがあったんですが、そのとき平沢さんの師匠は中村さんだという話を聞いたんです。
それなら俺の師匠は平沢さんだ、俺も「師匠」と呼ぼうと思ったから。
俺が最初に「師匠」と呼んだと思います。
平沢さんは、気さくで人のいいところを探す人ですね。気のいいおっちゃん。
ただ、たまに変なことする人ですね。
か:松田さんは何と呼ばれてたんですか?
ま:他は「さん」付けなのに、「松田」ですよ。
か:基本、身内意識のある人しか呼び捨てにしないんじゃないかな。
ま:平沢さんは寂しがりだから一人でやれないんですよね。
ドラムだけは自分でできないというし。だからリズムボックスがあって良かったです(笑)
平沢さんが、雑誌を見ていて、タルボを発見したんです。
発見した平沢さんは、まるでトランペットを見ている黒人の少年みたいに見えました。
そこでトーカイに、「モデルハウスの松田と申しますが、タルボのモニタをさせてください」という電話をしたんです。
当時タルボは15~6万くらいだから手が出ないし、俺がいなかったら平沢さんタルボ使ってなかったかもしれませんよ(笑)
当時ブローラーくらいしか自分のギター持ってなかったんじゃないかな。ムスタングは借りっぱなしだったし。
トーカイは師匠にとってメンテもしてくれるし神のような存在だったと思います。
Q:歯車同好会に出した論文のタイトルを教えてください
A:忘れちゃったけど「歯間力(しかんりょく)」
Q:「ギョーラ」は見つかりましたか
A:見つけ出して本物を持ってこようと思ったけど未だにわからずじまいです。
ギョーザにあんかけが乗っているみたいな食べ物だったと思う。
平沢さんは肉が食べられないんですが、「ギョーラだけは食べられた」と言っていた記憶があります。
Q:LEAKとTABLE BEATの関連性を教えてください。
A:LEAKと言う曲は師匠が私との科学反応でできた曲だと思っています。
広瀬に「あれはTEABLE BEATのパクリだ」と言われていました。
以上、取りこぼしも多くあると思いますが、ひとまずメモした内容です。
本編では
・レコード屋、ロック喫茶、ライブハウスなど溜り場が出会いの場所
・ニューウェイブ、誰も「自分がやってやろう」という衝動に駆られた時代、何でもあり。
ファン、読者参加型
・音楽は貯めこんでいてもしょうがない。聴かせろ、広めろ
・音楽業界は一度滅びたほうがいい
・音楽との出会いの難易度が低くなり、音楽の質が下がった
など大変こゆくてワクワクする内容でした。
先にも申しましたが、本編の内容は松田さんのtwitterを見るとわかりますのでそちらをご参照くださいませ。
さいごに
ヒラサワススムは科学反応の人。人から刺激を受けて面白いものが作れる。
マンドレ時代から常に刺激を受けながら作ってきた。
そういう作業の必要性を感じる人が減ってしまったのでは。
という話が印象深く残っております。
わたくしは、81年早生まれのド田舎育ちです。
流行は薄まりながら遅れて漂着、そこに乗っかった、友達の年の離れたおにーさんおねーさん、または関東に住む親せきに憧れていました。
そういうことを思い出して興奮しっぱなしでした。
KISSXXXX、To-y、チャイルドライク・ワンダーなどバンドを題材にした漫画を思い出したり。
今なお冷めやらぬ状態です。もうすぐ平沢ライブなのに。
時間のあるときに本編もまとめられたらいいなと思っておりますが、これにて了。